ジェンダー(武蔵野大学通信教育学部科目レポート)

戦後、家制度が廃止となったにも関わらず家や結婚にまつわる刷り込まれた感覚は今もなお消えないでいる。例えば、女性は結婚したら男性の家に入るということは当たり前であり、逆に女性の家に入る男性に対しては普通の結婚ではないという感覚を持つ人は少なくない。実際に結婚して男性側の戸籍に入る女性の割合は、厚生労働省の統計によると昭和50年では98.8%、平成27年でも96.0%となっている(厚生労働省2016)。これは何を意味するのか。意図的とは別に無意識のうちに結婚とは男性に家に入ることと思っている女性が多いということを指しているのではないか。その問いに着目し本稿では廃止されたにもかかわらず今なお根強く残っている家制度の中で刷り込まれたジェンダー意識について考察する。  家制度とは家を制度として制定した明治民法のひとつだ。国家に天皇が在るように家にも家長をという考え方のもと制度として浸透してきた。朝日新聞デジタルの記事によると、「制度の中で妻は無能力者として位置づけられ何をするにも家長である夫の許可がないと働きにもでられなかった」と記されている(朝日新聞デジタル2021)。この位置づけに当てはまる事例として筆者の友人が抱く家問題がある。友人である60代の彼女は働きに出たいという本人の希望とは裏腹に夫の許可がないと働きに出られない。彼女の夫には彼女が働きに出ることは一家の長として恥だとの考えが根強くあったのである。定年を迎えた夫の収入だけでは老後の不安が残るという彼女にとって収入減にもかかわらず夫の了承が得られず働きに出られないという矛盾を抱えていた。社会全体では女性の社会進出や管理職推進などが掲げられている傍ら家の中では今もなお家制度の名残があるのである。  明治民法では無能力者とされた家庭内での女性の役割ではあるが、上野(2011)によれば、「女を女役割にしばりつけているのは、夫や子どもではなく自分自身だ[1]」とも記している。限りある資金のなかでおかずを何品作るか、それに固執しているのは女性のほうであるとの見解だ(p.192)。女性も自分の役割を自分自身に刷り込んでいるといえよう。このように社会的・文化的に作られた性別的役割の概念をジェンダーといい、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきという性差による役割分担は、本来人間としては性差によって決めつけられるものではないのである。  もうひとつ事例をあげよう。友人の長男であるご子息が結婚された。ご子息は婿として女性側の戸籍に入ったという。友人は婿という立場を非常に不満に思い、長男と疎遠になっているという。この場合、男だから嫁を貰うのが当然という家制度に依存したジェンダー感に母親自身がとらわれていることが問題なのである。ご子息をひとりの人間として幸せを願うことを忘れてはいないだろうかと疑問が残る。 この2例からみても女性側がジェンダーという性別的役割の意識を手放していないことも論点になってくる。夫が許さないから働けない、長男だから婿はありえないなど刷り込まれた視点を変えない限り家の中のジェンダーはなくならないのである。  さて、家制度が廃止されて76年。男女ともに都合がよかった家制度の消えない意識の名残がジェンダー格差に反映している現代、個々の幸せとは何かを問うきっかけとなるのは家の中となるだろう。家制度の刷り込みによる意識がなかなか消えないのは、その制度の仕組みが都合よかったからでもあり、制度がなくなってもその制度の内容でうまく調整できている人もいる。問題は家制度により刷り込まれた名残による性別的役割で決めつけられた生きづらさをどう改善していくか、それがジェンダー格差を生まないポイントとなりそうだ。 参考文献 上野千鶴子『おひとりさまの老後』文藝春秋2023年、p192 厚生労働省(2016)人口動態統計特殊報告「婚姻に関する統計」の概況 01.pdf (mhlw.go.jp)(2023年4月29日閲覧) [1] 女性が家庭内の役割として家事労働があるならば、その役割を全うしたいという女性側の強い欲望も根強いのではないかという視点。